ジャイアント馬場ファンサイト「ジャイアント台風」
誰もが知っている。でも誰も知らない馬場がここにいる。




(お詫び)当サイトのタイトル「ジャイアント台風」は
講談社より発刊されている同誌とは一切、関係
ありません。故人を偲ぶ上で最適と思い流用させ
て頂きました。よって本サイトの全責任はサイト
管理者がおうものとします。

全日本プロレス公式サイト


少年時代の馬場には沢山の逸話がある。 家業の青果商を手伝い、毎朝、欠かさず朝の5時に起き
リヤカーを10キロ先の朝市に運んでいたとか、線路上に仁王立ちになり列車を止めたとか、良くも
悪くも、いたずらもするが、優しく・他人おもいな普通の少年だった。 しかし、ただ一つ非凡では
なかったのが、その恵まれた肉体を生かしたスポーツにあった。 町の祭りで模様される子供5人抜き
相撲では負けたことがなく、行司から「やめてくれ。」と、言われるほど強かった。中学では野球と卓球で
中越地区で優勝を経験している。 高校に入ると大関 栃錦が自宅に訪れるなど宮城野部屋・春日野
部屋が目を着けていた。 在学中に巨人入りのきっかけとなる野球では実際は高校2年からスタート、
直ぐにエースで4番となると一試合脱三振18の記録をマーク。連戦連勝を繰り返し新潟地区の優勝
候補と言われるまでに大活躍を収めた。 しかし予選1回戦で(0−1)敗退、3年を目指した矢先、
支度金20万円、初任給1万2千円を条件に念願の巨人軍からスカウトされた。 昭和30年1月20日
この日ついに、球界史上最年少16歳のプロ野球選手が誕生した。
PS.初任給1万2千円はほぼ当時のサラリーマンの平均月収に匹敵する。



二軍スタートとなった馬場は2年目に入ると12勝1敗で最優秀投手となる。3年目も13勝2敗と
2年連続で最優秀投手賞を獲得。そしてこの年、初の一軍公式戦を経験する。それが左の映像に残る、
8回裏から敗戦処理登板となった対阪神である。(馬場は3者凡退で退いた)
当時のスポーツ解説では「2階から投げ下ろすような剛速球」と、いまでは背の高い投手によく使われる
解説が始めて使われている。 スピードガンの無い時代だったが140キロは軽く超えていただろうとも
言われている。 その後、初先発も経験するが、それはリーグ優勝が決まった翌日の対中日戦で5回を
一失点に押えるが敗戦投手となった。(同試合は中日のエースだった杉下の200勝試合記念試合)
結果的にはシーズンを通し、主力扱いではなく、都合の良い選手としての扱いだった。

シーズン終了後、脳腫瘍を患うが奇跡的に復帰。 4年目も2軍で最優秀投手となるが一軍での
活躍はなかった・・・
(補足)当時の巨人軍監督水原は「プロ野球選手も大学出でなければダメ」が持論であり、エリート
指向であったのも馬場一軍昇格に災いしたと言われている。更に水原・千葉が四国出身、当時の
現役だった川上、二軍監督だった武宮が熊本出身であり、四国・九州勢が派閥を利かせ、唯一
北陸出身だった馬場は先輩からの「引き」もなく、今日のプロ野球界では当たり前とも言われる
『飼い殺し』状態、つまり「手強い敵になるなら懐にしまいこんでしまえ」の犠牲者となった。
これら行為は馬場にとっても遺恨となり、後に全日のエースとなるも巨人軍とは袂を別ち、度重なる
OB会への参加要請にも断る要因となる。共に当時は日本テレビの繋がりがあっただけに、馬場の
決意は尋常ではなかったと推測できる。

読売巨人軍を解雇された経歴を彼の挫折と解釈する者は多い。 だがむしろ、彼にとっては
一つの試練となり、後の人生を大きく飛躍させることとなった、貴重なターニングポイントだと言える。
高校生だった彼をスカウトした谷口コーチは彼の持つ、素質そして才能に魅了された。
しかし、派閥を優遇した水原監督の元で2軍ながら、3年連続最優秀投手の栄冠に輝くも1軍昇格
には繋がらず不遇の時代を経験する。そして34年、馬場は自由契約となった。

翌年、大洋ホエールズへ移籍となった谷口五郎氏はかねてから目を着けていた馬場に再度
チャンスを与える。 が、不慮の事故が彼の野球人生に終止符を打つこととなった。

この時点で家族からは帰宅要請がなされる。 しかし彼は「あと、5年!自分の力を試したい!」と
強く嘆願する。 これら経緯は後の渡米時にも、前座に甘んじること無くメインエベンターを目指し
続けると言う彼の不屈の行動に集約される。

■プロ野球時代での一軍での成績は3試合に出場 0勝1敗 投球回数7 被安打5 奪三振3
失点1 防御率1.28 背番号は59
後に全日本のエースとなった馬場は断り続けていた読売巨人軍のOB会に参加。
プロ野球界のスーパースター、王・長嶋らと対し、収入面で大きく上回っていたことを誇りとし
後に「収入面でもプロ野球に負けるな」と、プロレス界を大いに奮い立たせた。
昭和35年4月11日東京・日本橋にあった「プロレス・センター」で報道陣を集め馬場、猪木の入門が
正式発表された。 力道山は馬場が巨人軍在籍時代から興味を抱き、度々プロ野球担当記者に情報
収集を行っていた。 そしてついに馬場のプロ野球断念を知ると力道山は旅先ながら直ぐに動き、側近を
使者とし、馬場の元へ差し伸べた。

しかし人生の地獄を見てきた馬場は「自分の人生は自分の力で切り開く。」
「全ては力道山先生と直にお話を伺い、決めさせて頂きます。」と、言い切った。
後の彼が築きあげた大きな財産とも言えるプロモーターとしての交渉力は意外とこの頃から身に
付けていたのかも知れない。
そんな馬場に力道山は大きく期待を膨らませた。

馬場、当時22歳。その後、力道山から科せられたのは容赦のない厳しい修行の日々だった。
厳しい特訓は体格は大きくても筋肉質ではない肉体を徐々にプロレスラーの肉体へと変貌させた。

入門から5カ月後の9月30日東京・台東体育館でデビュー戦を行う。相手は田中米太郎。
田中は当時、喧嘩殺法を得意としていた33歳のベテラン選手。馬場は5分15秒股裂きで勝利を飾る。
因みに田中は後に新日本のレフリーとなる。
馬場を大きく飛躍させた経緯に、サーキットと呼ばれる渡米での経験が挙げられる。
約700試合以上を消化したと言われる、その内容は日本人レスラーとして初のMSG登場や
世界3大タイトル挑戦、それは力道山すら羨む華々しいものだった。中でもロスではWWAチャンピ
オン、デストロイヤーにも勝利している。(1−0・三本勝負のためタイトル移動無し)

猪木よりも3年早く渡米のチャンスを得た馬場をヒイキと呼ぶ声もあるが力道山はそのキップを
容易に渡すことは無かった。
その試練こそが、第3回Wリーグ開幕戦で行われたミスターX(ビル・ミラー)戦と
言われている。 試合は4分21秒逆エビでの敗退となるが同シリーズに参戦していた日系レス
ラーの大御所グレート東郷から「この男なら絵になる。」 「海外でも充分に通用する。」
そんなお墨付きを頂き、晴れて勝ち取った栄誉でもあった。
昭和36年7月1日、晴れて渡米のチャンスを得た馬場の境地は未知なる不安と期待に
胸躍らせていたことだろう。 しかし師となる東郷のマネージメントは容赦ないものだった。
パスポートを取り上げられ、自由となる資金も極、僅かとなれば、むしろ悲惨とも言える。

それを試練と言えば美しいが真相は馬場のギャラ大半を東郷がプールし、それが一流外国人
レスラー招致の資金として流用されていた。 ともあれ、悲惨な状況にも音を上げることも
無かった馬場は「若手三羽ガラス」として期待され、同期渡米中だった鈴木幸雄(後の
マンモス鈴木)とも大きく水をあけることとなる。

ハンセン・ブッチャーらの自伝に書かれている馬場のプロモーターとしての評価はこの時期に
習得したと考えられる。 彼ら同様、未知の地で生活を確保させると言うこと。いかに契約が
重要で信頼を裏切らないことが、この世界で重要かと言うことを・・・

とは言え、この時期、馬場は巨人時代の汚名から脱出、国内では無く全米を制覇したのだ。
(23歳〜26歳)計3度の渡米を経験、それは全日設立後も継続される。
力道山死後も、日プロ幹部は馬場をすぐに呼び戻そうとはせず当時、力動のタックパートナー
だった豊登にエースの座まかせる。しかし手抜き試合やボイコット、はてはデストロイヤーから奪取
したWWAタイトルの海外防衛戦を拒むなどトラブルが続出。

馬場は第6回Wリーグ(S36)から帰国参戦、5勝1敗1分)ながら迫力ある大型ファイトが人気を呼び、
ついに昭和40年、復活インターの座についた瞬間、馬場は名実ともに日本の大エースに登りつめる。
エースの座を追われた豊登は自ら犯した策略を糾弾され辞表を表明する。(幹部の裏工作による)

第8回Wリーグを初制覇し、力道山時代を上回るプロレス人気を背に「ジャインアイト馬場」の激闘は
日本を舞台に展開される。 馬場&豊登が所持したアジアタックは馬場&吉村に受け継がれ、
12度目の防衛戦時ダブルタイトル戦でインタータッグを勝ち取り返上される。
インターの歴史、それはプロレスの歴史と言っても過言ではない。
渡米時に築いた馬場の人脈は海外のスターを続々と日本のリングに登場させた。
それは日本が世界に通用するマーケットであることを証明させた時代でもあった。

力道山の好敵手ルーテーズをも馬場は41年に撃破している。(当時テーズ49歳・新日参戦時は
58歳) 初の武道館進出を大成功に導いたF.Vエリック戦には当時の少年達も熱狂した。(私も)
大阪球場を興奮のるつぼに叩き込んだNWA世界Cジン・キニスキー戦では実力では間違いなく
勝っていた。初来日のクラッシャーの破壊力は全盛期のハンセンを凌ぐ凄さだった。

往年そしてまだ見ぬ強豪に日本中が沸いていた。 馬場、27歳から34歳の6年と10ヶ月まさに
絶頂期に築かれた不滅の金字塔である。
この頃、馬場は自らの人生設計で40歳での引退を描いていた。
Ps.その40代はオープン選手権開催頃であり、時代は猪木イズムが絶対勢力を付けており、鶴田の
成長等、結果的には自らの犠牲を強いることで、団体の権威を誇示、惜しまれつつも、その希望は
叶わないものとなって行く。 晩年、そして還暦と、リングから見詰める天井のライトに生きがいを
見出したと語る、馬場さんは人としても境地にいたと考える。

しかし44年NETの日プロ放映開始、46年猪木の馬場への挑戦状と時代は馬場に安息の日を
与えることはしなかった。
PS・劇画「ジャイアント台風」は昭和44年鰹ュ年画報社より発行される。

当時を知るプロレス関係者の多くが、その力の差を実感していた。 「闘えば猪木は馬場の相手ではない。」
馬場の攻撃は重く、鋭い。 対する猪木はすばしっこいのが取り得だが、捕まれば馬場が圧倒的優位が
当時のマスコミ論であった。 しかし、舞台がTVとなれば別。 興行以上に視聴率が左右していた。
力道山没後、経営面でも窮地にあった日本フロレスは馬場の人気に
よって再建された。 勿論その中には猪木をはじめ坂口など多くの若手が
在籍していた。

しかし、馬場座長も所詮雇われの身、旧幹部の策略と数々の欲望に阻まれ
日本プロレスは再び混迷の時代に自らを落とし込んで行く。

力動山にたかって来た古株が、この時も絡んできていた。
馬場亡き近年も猪木は「私の方が強かった。」と、平然と嘘吹く。
若いファンは晩年の馬場を思い浮かべ、しかるべきと考える。

記録にある戦績はデビュー翌年の昭和36年5月富山で初対決(10分羽交い絞め)で馬場が
ギブアップを奪っている。 過去の事と言うファンも多いと思うが、当時の過去を持ち出しデビュー
試合の経緯や海外遠征を馬場のエコヒイキと言うのはむしろ猪木側ではないだろうか?

その後も両者は36年に馬場の6連勝、(37年は馬場海外遠征)38年の10連勝と馬場の一方的
勝利とある。勿論大木金太郎とも戦った。負けたこともあったが5勝6分2敗(1反則負)と相手にして
いない。39年以降馬場は吉村と2戦(1勝1分)した以外、日本人とは対決していない。
この頃の彼は名実ともに日本のエース格となっている。

猪木は39年に初の海外遠征に旅立つ。2年と8ヶ月間のサーキットに於いて主にカンザス・
テネシー・テキサスと渡り歩き、幾度とリングネームを変えている。
もっぱらタッグマッチが主で、シングルではメインを張ることはなかった。 猪木23歳、馬場28歳。
両者には年齢だけでは測り知れない多くの試練の差があったと伺える。

今日、馬場・猪木時代を振り返り、ある記者が嘆いた言葉に、雄弁かつ金品の贈与に惜しみなかった
猪木を優位に記事を書いていたと言う。猪木=雑草・馬場=エリートはまさにその最たるもので、
鳴り物入りとは言え巨人軍で挫折を味わった馬場。 

対する猪木は若干17歳と言う若さでヒーロー力道山にスカウトされ入門。 力道山亡き後も豊登の
甘い誘い(馬場の引き立て役はいやだろう。)にさっさと日プロに見切りをつけるなど到底下積みと
言う言葉は似使わない。 しかし、猪木は大きなチャンスを掴む。昭和44年NETが日本プロレスの
定期放送を開始するとともに猪木をメインに据えることとした。

そして同年、第11回Wリーグ初優勝。46年にはNETの後ろ盾により創設されたUNチャンピオンに
着くとその2ヶ月後には第13回Wリーグに優勝した馬場に挑戦状を提出すると言う暴挙に出た。
当時すでに日本テレビは馬場、NETは猪木のみの放映権をもち、両者が同じ画面に映ることすら
許されなかった(それでギャランティーが発生していた。 勿論、バカな幹部連中が馬場・猪木を
バラ売りするなんてことをしなければこんなことは起こらなかった。)

実現するはずも無い一戦を知っての言動は間違い無かった。 困惑した日プロ幹部は(一部は知って
いた)猪木を除名処分とするが、待ってましたとばかり猪木は新日本プロレスを旗揚げする。

そしてつにい日本テレビも日プロの放映を中止。日テレ・三菱電気の後押しを受けた馬場も日プロを
離脱、全日本旗揚げを決意する。 馬場VS猪木こそ日テレVSテレ朝の代理戦争なのだ。
年間4億近いギャランティー(当時)がl両者をよりヒーアップさせて行く。 馬場34歳・猪木29歳。
その経歴にはあまりにもへだたりが有りすぎていたが時代は風雲児・猪木に加担する。

プロモーターとしての手腕が時には馬場を大きく見せ、また時には彼の足を引っ張ることとなった。
この頃の両者は興行主として対決している。NWA世界戦・異種格闘技どれもが完成された興行と
言えるが猪木サイドのもたらすインパクトは若い世代の多く共感を得ていた。
それこそがストロングスタイルと言う偶像であった。

晩年、Mr高橋の著書に外国人レスラーの強さには日本人では叶わないと記されている。そう言えば
無名だったブッチャーが初来日の初戦で馬場から金星を上げ、最後にはインター挑戦権と言う、日本に
おけるメインエベンターの地位を確保したのは、その実力がゆえかも知れない。
ハンセン・ブロディーもしかりと言える。 そこから紐解けば馬場VS猪木の格付けは両者の海外遠征に
おける成果が問われるのでは無いだろうか? 猪木がMSG登場となった日、ファンの多くが当時の
WWWFチャンピオンB.Sマルチノとの対戦を熱望した。が実績が無い猪木は拒否されている。
海外における彼の実績は大金を払いアリと戦ったゲテモノであり。客を呼べる選手ではない。ましてや
恩義を果す価値もない男なのである。

猪木が馬場に挑戦状を叩き付けた日、当時小学生だった私はその対戦に胸踊らされた。
近いうちにきっと実現し、間違いなく馬場が勝つと確信していたがその時が訪れることは無かった。

(私的解釈、馬場VS猪木論)
絶頂期であった馬場に対し、猪木は必要なまでの挑発を行っている。
当時は無謀と思われていた行為も、次世代の感性からすれば、革新的意義があり、次第に若い世代を
中心に猪木信者が加速する。 加えてメディアも追随し、両者による日本人対決が力動VS木村戦の
再来を彷彿させていく。 しかし、馬場にとっては米国の経験からプロレスとは、受身であり、対戦者を
活かしながら、闘うことが前提であり、自らの強さだけを誇示する猪木の(国内だけをマーケットとする)
スタイルには到底、合い反するものだった。 当時の実情を象徴するのが、対ビル・ロビンソンかと推測
します。 彼はゴッチ同様、蛇の穴(アニメ、ダイガーマスクの虎の穴はこれから引用)出身です。 同時期、
馬場自ら、全日本に注入したのはファンクス王国が誇る、見せる受身の強さでした。
ロビンソンはその後の不遇から、馬場に対し、恩義を感じてないようですが、馬場も彼の強さや求心力の
無さを軽視しております。 馬場さんよる、プロレス論は万人よりも強くて当たり前。加えて受けて立つ、
のが前提です。事実、対ロビンソンのPWF戦では受ける馬場が顕著ですが、その後のシングルやタッグ戦
では、チョップなどのシンプルなプロレス技に翻弄されるロビンソンの伺えます。 推測ですが、空気を
読めないロビンソンに対する、力による報復とも思えます。事実、結果的にはロビンソンのパフォーマンスは
世界で受け入れられず。 と、言うよりもレスラー仲間よりも総スカンとなって行く。実は今の猪木も同様の
立場にいるのはファンだけが知っていない。(残念!)
 
5年ぶりの日本人対決(馬場VS吉村)の一戦は昭和43年2月16日・後楽園ホールで行われた。
折からの大雪に空港が閉鎖され、外国人レスラーが北海道・千歳空港に送られため急遽、
メインとして組まれた試合だった。ファンは大いに沸いたと言う。
ちなみにレフリングは猪木が担当。 その後、”火の玉小僧”吉村は旧日プロ幹部に愛想を尽かし
近大にもどる。

その容姿から力道山に「昔見た映画のインディアンみたいだ。」 「だからお前のリングネームは
死神酋長で行くぞ。」と言われ必死に拒んだ猪木寛至(アントニオ猪木)。
結局は当時、猪木が媚びていた豊登に嘆願し却下してもらう。
一時はプロレス引退も考えたほど、猪木にとって辛い思い出。 馬場、海外遠征中のことである。
■左の映像は当時放映されていたTVドラマ「チャンピオン太」(原作:梶原一騎)
劇中、登場するのが死神酋長。 出演者のテロップもアントニオ猪木ではなく
死神酋長のまま。 このイメージで力道山は猪木寛二の売り出しを考えていた。  

※ドラマになついて・・・ 力道山も猪木も声は吹き替えのようである。
また、猪木の登場シーンも高下駄のようなものを履かせて大きい身長を更に
大きく見せているのが伺える。
幾つかのサイトを拝見し、日プロ昭和史の内容を確認すると度々、参考資料として門茂男の著書が
確認できる。 著者は確かに昭和プロレスを間近に接し、報道畑出身とあり、客観的かつ理論派として
魅力的な文筆家として評価できる。が馬場VS猪木に関しては疑いも無く猪木派と断定できる。

1972年、彼が創設したジャパンユニオンに私も賛同し会員登録させて頂いたが当時は猪木のスト
ロングスタイルが全盛で、高い支持を集めていた。 
次第に筆者の文面にもその傾向が見え隠れし、私は退会を決意した。
私も一時期、格闘技に没頭し、強さを追い求めた頃がある。 だから言わせて頂けば【動機無き戦いに
勝者無し】の結論に到達する。つまり格闘家にとって負けると言うことはルール上のことであって
「俺は負けていない!」と言う道理が成り立つのである。

真剣勝負と言うのは勝ち負けでは無く「生きるか死ぬか」と言うことであってルール上での負けイコール
弱いと言う概念は単に事務的処理に過ぎなく選手にとっては到底納得の行かない理論である。
逆を言えば全くルールが存在しない試合形式では如何なる猛者も参加しないだろう。

話はそれたが、私に言わせれば門氏は多分に事務派であり、気安くセメントと言うコメントや、
強い・弱いと言う言葉を選手の評価に使うが、それは不適切だと思う。「弱い奴ほど良く吠える」
喧嘩をうった方が強く見え、買わなかったからと言って弱いと言う評価は自らの人生と照らし合わせて
頂ければ誰もが理解頂けると信じている。

それなりの強い動機と憎しみを備え、相手の油断を伺えば肉体的ハンディーを克服することも用意
なのである。 人気の馬場VS実力の猪木。 新日本をメジャー団体に押し上げたパフォーマスに魅了
されたジャーナリストは数多い。今、真実を問いかけるつもりは無いが、古き良き時代を回想するに
あたり、両者の評価を過去の見地と変わらない土壌で評価するのはいかがかと思う。
時代が変わった今こそ、むしろ公平であって欲しい。

■1973年10月9日 インタータッグ戦
馬場&鶴田VSザ・ファンクス
凱旋帰国の鶴田と組んで王座に挑戦。
1対1から61分ドロー。鶴田のフロント
スープレックスにはビックリしました。
■1974年12月5日 日大講堂
ジャイアン馬場VSジャックブリスコ
3日前鹿児島で奪ったNWAに自ら
持つPWFを加えた2冠戦。
しかし同月9日、王座を明渡す。
■1975年12月 オープン選手権
度重なる猪木の挑発に対し、無言の
抵抗とも言われた選手権試合。
猪木は力動追悼13回忌に不参加。
力道家から破門状を渡される。
■1975年12月15日オープン選手権
ジャイアン馬場VSジャンボ鶴田
24歳。驚異的な跳躍力と未完成の
破壊力は将来に大きな期待を誇示。
両者の戦績は馬場の3勝6分。
■1976年7月24日 蔵前国技館
ジャイアン馬場VSビルロビンソン
国際・新日と渡り、無敗のままで
全日参戦。対馬場戦でも、この
一戦が唯一の敗北となる。
■1990年4月13日、全日本&日本テレビ
共催。日米レスリングサミットより、夢の
BIGコンビ結成!6分38秒、馬場組の
勝利で幕を閉じる。
■1975年4月10日仙台、対ブルーザー
とのPWF選手権。一対一の後、馬場の
エビ固めで27度目の防衛を果すが、
2本目をこの珍しい暴走で反則負け。
■1976年5月8日、チャンピオンカー
ニバルでの因縁の一戦。当時は定番と
なったブッチャーへの頭部攻撃が懐か
しい。 第4回優勝はATブッチャー。
■1981年12月13日、世界最強タッグに
乱入したハンセンとの対決。
一歩も引かない馬場に復活の予感!
■1975年7月25日、JブリスコのNWA
挑戦権を賭け対戦。勝った馬場は8月
8日ミズリー州まで乗り込み挑戦したが
1−2で王座奪取ならず。 ちなみに
エリックの流血は馬場の攻撃が原因では
なく、興奮したファンがペンで刺したため。
■ジャイアン馬場さんへ・・・・
私は馬場さんが大好きです。 多くのファンが言うその人柄は勿論。 たくましく、力強い馬場さんを
いつも尊敬しております。 私は知っています。 全盛期の頃、馬場さんの16文は相手を蹴飛ばし
踏み倒していましたね。ヤシの実割りは高く上げた足と、その反動で相手の首を軸に振り廻し倒す
凄い技でした。まさに馬場さんでしか使えない必殺技でしたね。馬場さんのピークは正直、見ていて
ご本人が引退を考えていた40歳だったかも知れませんね。 多くの大試合で決めていたランニグ
ネックブリーカードロップは今の使い手とは異なり、一瞬身をかわし不意を付いて全体重を浴びせる
一撃必殺の技で見ている方もゾッとする決まり手でしたね。   それまでの馬場さんは打たれ強く
その巨体を縦横無尽にリングで発揮しておられました。 当時の対戦相手も皆、油の乗り切っていた
頃。エリックもブルーザーも後のハンセンやプロディー以上のパワーでしたね。
当時でも苦戦はありましたね。 全盛期のブラジル戦は本当に凄い試合でした。
当時のブラジルなら全盛期のブロディーですら歯が立たなかったかも知れません。
それほど柔軟で力強い動きでした。  馬場さんはハンセンとの初対決でファンに復活を予感させ
ましたよね。 憶えていますか。 あの試合は本当に感動させられました。 でもね、今だから
言わしてもらいます。 もしかして勝てたんじゃないか? その以前にハンセン全日乱入の時、リング
そでからドリー救援に向った馬場さんとハンセンの激闘は昔の対クラッシャー・リソワスキー戦の
彷彿させる凄いものでした。 打たれても応えない。 振り落す空手チョップがひたすらに相手の
こめかみを打ち込む・・・ しかし初のシングルではそのチョップはこめかみではなく、右腕にのみ
打ち下ろされていました。 馬場さん、あの時、自分のを生かすよりハンセンを生かすほうが全日の
ためだと考えたのでしょ。 そして、馬場さんの思惑通り新たな全日がスタートしましたね。



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またまだ続く「ジャイアント台風」
全日始動の裏側等ご期待下さい。

(お詫び)更新が滞っています。言い訳ですみませんが
引越し後にプロレスの全資料を物置の一番奥に仕舞込んだ
ためです。落ち着いて整理が付けば再び更新致しますので
ご理解下さい。お詫び申し上げます。(9/20)