PARTTへリンク PARTT:馬場インターの熱戦を初め対ブリスコ
BI熱戦・米国サーキットでの一戦等全日隆盛の
時代を掲載。「ザ・ファンクスVS最悪コンビ」の
オープンタッグもレポート・・・・・
PARTUへリンク PARTU:馬場VSブラジルの32文3連発を中心に
「S小林VsR木村」の日本人対決、力動山最後の一
戦等激動の昭和プロレスをレポート・・・・・
PARTVへリンク PARTV:昭和史をダイジェストにレポート。
秘蔵写真を掲載。リンク集など・・・・・
NWA 場外乱闘!へリンク 場外乱闘!:「レイスVSブロディー」始め衝撃映像
や猪木史など昭和のトピックスをレポート・・・・・
ジャイアント台風:多数の資料から収集!
真正ジャイアント馬場伝。


[当サイトのスタンスについて・・・・]

☆プロレスはこの数十年、目まぐるしい変貌を遂げています。戦う者そして見る者も世代を代え、その歴史は逸話のごとく語られております。
しかし、私達にとって、プロレスと言うジャンルの存在に価値があり。今は多様化したニーズに適した多団体の存在に理由があるのだと
考えます。  当サイトの場合は「昭和プロレス」を中心に情報配信をさせて頂いておりますが、現状のプロレスを否定するつもりは毛頭
ございません。 むしろ、声を上げて応援いたします。武藤は今、心底苦しみながら現状打破に向け戦っているのでしょう。「K−1」は選手の
寿命を縮めながら今の栄光を確保しております。過去に馬場はレスラーの地位向上を切に願いました。レスラーは道具では無く今も
人々が憧れる「ヒーロー」です。体を張り、感動を生む。 主役は替わろうと私はいつまでもプロレスの味方です。



昭和32年10月7日後楽園球場で世界ヘビー級選手権試合
昭和42年東京プロレスと国際プロレスの合同興行
昭和46年第3回IWAワールドシリーズ
昭和26年・元関脇力道山が遠藤幸吉とともにプロレスへ転向。折しも9月ハロルド坂田によるプロレス試合開催。
昭和27年・2月3日力道山、ハワイの沖識名のもとでトレーニング開始。17日レオ・ノメリーと対戦。(敗戦)
昭和28年・帰国した力道山は角界の支援を受け「日本プロレス協会」を設立。12月テーズに挑戦。(敗戦)
昭和29年・プロレスフィバーとなったVSシャープ兄弟との世界戦開催。12月木村政彦との日本選手権開催。
昭和30年・元横綱東富士がプロレス入り。山口利夫が力道山に挑戦。キングコング来日、アジア選手権開催。
昭和31年・力道山・遠藤幸吉組がシャープ兄弟を撃破、世界タッグ選手権者に。”赤いサソリ”タムライス撃破。
昭和32年・NWA世界チャンピン・ルーテーズ初来日。10月7日後楽園球場での世界戦は時間切れ引き分け。
昭和33年・8月27日ロスでついにテーズを破りインタータイトルを奪取。初防衛戦ではD.Lジョナサンを撃破。
昭和34年・海外遠征ため力道山不在の日本プロレス人気は一時低迷するがワールドリーグ開催で再沸。
昭和35年・馬場・猪木・入門。第2回ワールド・リーグはレオ・ノメリーを破った力道山が2年連続優勝。
昭和36年・第3回Wリーグの開幕戦馬場VSミスターXとのエキビションマッチを行う。敗退するも善戦を評価
され初の海外遠征に。ロスを皮切りに7月には東部、そしてMSGに出場。「ビックババ」旋風を巻き起こす。
昭和37年・力道山ロスでブラッシーを撃破。同年来日したブラッシーとの一戦ではショック死事件が問題となる。
昭和38年・12月8日力道山、暴力団の凶刃に下腹部を刺される。同15日腸閉塞を併発させ死去。
昭和39年・日本プロレスは力道山亡き後、豊登をエースとした新路線で再スタート。デストロイヤーを破りWWA
王座に。併せてWリーグもキニスキーを破り優勝。この年猪木が初渡米、ハワイから米本土に渡り各州を転戦。
リングネームは「トーキョートム」「リトルトーキョージョー」「カジモト」「カンジイノキ」と各地で変えた。また6月には
SスナイダーのUSタイトルに挑戦。再渡米中だった馬場は前年の帰国で力道山に次ぐ人気を獲ていながらも帰国
要請がなされず、米本土で一人奮起。テーズ・サンマルチノ・ブラッシーの3大世界タイトルに連続挑戦。
昭和40年・豊登が病気療養を理由に辞表を提出。馬場はブルーザーを降し復活インター王座に、人気爆発。
猪木はテキサスでデューク・ケオカムと組みF.Vエリック・K.Kコックス組を破り南部タッグ選手権を獲得する。
昭和41年・日プロは芳の里を新代表に馬場を選手会会長としてスタート。が世に言う”太平洋上の略奪”で豊登は
渡米から帰路にある猪木をハワイで引抜き「東京プロレス」をスタート。また10月には元日プロ営業部長吉原功と
ヒロマツダが「国際プロレス」を旗揚げする。東プロは興行不振から単独興行は2度だけ。馬場はF.Vエリックとの
インター戦で初の武道館興行を成功。第8回WリーグでもWスナイダーを降し初優勝する。
昭和42年・猪木日プロ復帰。2月、元柔道日本一の坂口征二が入門。Wリーグは馬場が前年に続き2連覇。
昭和43年・前年からTBSが放映を開始した国プロに豊登が加入。BI砲誕生インタータッグ王座に。

力道山の死と日本プロレス崩壊
力道山が「日本プロレス協会」を設立するにあたり協会長に就任したのが右翼の超大物児玉義誉士雄
副会長には警察にもコネがあった東声会会長町井久之と山口組三代目田岡一雄の両氏。
そして暴力団と警察の関係を緩衝帯役となったのが大野伴睦であった。この微妙な関係は力道山の
リング外での手腕で維持されていた。が不慮の死によって状況は一変、加えて大野伴睦の死によって
警察当局からの圧力によって三役が退任を余儀なくとされると力道山の遺した遺産は莫大な借金だけ
となった。力道山亡き後、遠藤、吉村、芳の里は豊登を選手会会長に任命すると力道山遺族と密約を
行い「長男の義浩が成人すれば日本プロレスK.Kの取締役に就任を確約する。」と申し合わせをし
未亡人の退任を要請、変わって豊登が代表に就任するもその政権は1年7ヶ月と短命に終わる。
しかし、これら経緯によって力道山時代からのしがらみから手を切ることができた日プロは芳の里を代
表に据えエース馬場の元第2期黄金期を迎える。しかし金の亡者となった芳の里はその隆盛の時代を
維持するにはあまりにも無能すぎた。力道山時代から日プロ繁栄の柱であったテレビとの関係を後発
局であるNETに放映権をバラ売りすることで自ら崩壊することとなった。これまで二人三脚を取って来た
日本テレビでは馬場戦のみを放送、NETは猪木戦の放映件を獲得。後の馬場、猪木の離脱に繋がる。